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自然信仰のように、多くの人がそこに絶対を見出す芸術。アール・ブリュット。

生粋の表現を突き詰めた先に到達する産まれたての芸術。

私はこの呪縛から一足早く逃れることにしよう。
「彼らの芸術こそ絶対であり至高だ!」と言っているうちは、自らの表現者たる源泉を無視していると同時に、彼らと自らを隔絶した存在として認識している状態なのだから。
…断言出来る。誰しもがアール・ブリュットであり得るということを。


現代に生きる殆ど多くの芸術家と名乗る(その声の大小の違いこそあるが)人々はその心その魂に命じられ筆を、手を、身体を動かせているだろうか。自己をことごとく看破し、精神と肉体を同一させ、本物の表現を繰り広げている者が一体どれくらいいるだろうか。

今目の前に繰り広げられている作品たちは、本当に自分が欲していたものなのか?と。他人や社会に呑まれ、いつしか自分でも思っても見なかった、望んでもいなかったと んでもない場所に放り出され、しかもその居場所に納得も行かずウロウロと同じ所を彷徨っては立ち止まりの繰り返しをしているだけなのではなかろうか?と。
その産物というべきか、産業廃棄物というべきか、(はっきりと言ってしまうと世の大批判を浴びる事になるので伏せておく事とするが)ともかく肝心要の中身の抜けた空の器を、果たして「(自己)表現」と呼べるのであろうか。

こういった苦難葛藤を繰り広げる最中に出会うアール・ブリュットの世界。

自分が表現者なのか、はたまたペテン師なのか解らないままの者には、真の世界を見せつけられて目が覚める思いになるのだろう。
そしていつしか、新興宗教の一信者のように、崇めるようになる。
「我々には到達し得ない、特別な領域なんだ」と。

…しかし崇拝は隔絶を意味する。


「ブリュット」は「生」の意。生きとし生けるものには当たり前に存在する。
それを表現できているかどうかだけの話しである。

目の前にある我が作品を顧みた時、安心・興奮・静寂・情熱が、高純度の感情が自己の内に浮かび上がるかどうかだけの話しである。

アール・ブリュットとは、それだけの話しである。

芸術家は、それだけの為に一生を捧げる。一生を捧げるだけの価値が、「生の芸術」に存在する。
「芸術家」という言葉は、アール・ブリュットの精神たる権利と義務を内包している。
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