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えーーーー、今日はいつもに増してつまらない話しです。
柴田の制作スタイルについての話しです。
興味のある方は、読まれる方は、覚悟して下さい。長いですから。
しかし、これを読み終えたときには、いくらか僕の制作現場や絵に関する考え方などなどが理解頂けるかと思います。では。
作業中、なんで音楽を聴くのか、と訊かれたことがあります。
無音のほうが、制作に集中できそうだし、音楽のイメージが付いてしまって、自己表現とは違った方向に進んで行ってしまうんではないか、という。
うん、うん、確かに正論。いってる事わかります。
でもね、でもなんですよ。
僕の個人的な趣味と言うか、考え方というか、非ジョーにパーソナルな所の話しになるのですが、
えー、結局自分が想像し得る範疇のイメイジを、わざわざ目に見える形にしても、
何も楽しくないのですね。
所有欲は満たされるでしょうけども、あんまし魅力を感じない。
それなら目をつむって、空想をすれば片が付くんですよ。極端な話し。
それに妄想を現世に現してもがっかりするだけ。
妄想は、妄想であるから価値があると考えます。
そういうことよりも、もっと想像すら及び追いつかないものを描き現したい。
見た事もない様な、奇異珍妙なものをみたい。壮大過ぎて途方にくれそうなものを見たい。
なおかつ、そこには何もないような、空っぽの様な、意味のない様なものを見出したい。
脱線:ある一つのもの(ここでは自分の作品)には、一つだけのイメイジじゃ足りない。
いつも物事は二つの相反するものがセットになって、やっと独立出来るということです。
話がそれたけど、要は自己表現を越えた所の表現をしてみたいということ。
それに必要なのは、なににおいてもまず、「自己の忘却」
自分の趣味や、嗜好、妄想だけにとらわれていては、それ以上のものは出ない。
たまに、自己自体がとんでもない広さの人間もいるけども、
ほんとに平坦で、予定調和で、大した人生も送ってきてない僕にはそんなものの期待はできない。
というわけで、ピンときたのが「遺伝」であります。
まず、表現において大切なものを一つあげるなら、リアリティだと思う。
ところが、さっきも言ったように、人一人の経験なんてたかが知れてるのです。
当然人一人がもつリアリティも、大した事はないでしょう?
だとすると、どこから膨大な量のリアリティを持ち出すか。
そこで登場するのが、「遺伝」です。
遺伝情報は遡れば極めて広がりのある情報帯となります。
細胞の一つ一つに、46億年分の追憶があるわけです。
その事に気付いたら、こんなのに俺ひとり立ち向かっても勝てる訳ねぇ!
という結論に至った訳です。
勘違いして頂きたくないのは,別に、宇宙と繋がるとか、霊的ななんかが降りて来るとか、
そういうあやふやなものにすがったり、思い込んだりしている訳ではないということと
遺伝というのは事実的に確かに僕のなかに息づいているということです。
この、遺伝については僕の口から述べてもチープ&チープになるので、
「ドグラマグラ」という上下巻セットの小説を読んで頂くと、伝わるかと思います。
そんで、そういうことで「自己」に寄り過ぎないために音楽を流したり、ラヂオを流したり、何らかの情報を取り入れてる訳です。
あと、単純に、眠気をとるため。これ大切。
妄想したり、ましてやそれを描き出してる時なんか、熱中して頭が冴えるのは当然。
ところが僕の描き方ときたら、なににも寄らない浮浪のようなペンの走らせ方なものだから、ほんとのことを言うと、すごく眠くなる。単調な身体の動きは、動かないよりむしろ心地いいし、そう、電車に揺られる感じ?カタンコトンと。ああいう感じなものだから、すごく眠くなる。
それを打破してくれるのが音楽だったりする訳です。
ただ、もちろんその音楽のイメイジを絵に落とし込んでしまうとややこしい事になるので、そこは少し注意と訓練が必要。
じゃあどうやって絵を進めて行ってるのか。
簡単に言うと、二つの脳みそでもって絵を描いています。
それは右脳と左脳の分け方なのかどうかは、脳科学者じゃないから解らないけど、
具体的に説明すると、片方の脳みそは線を引く事に集中。身体をどう動かせば良いかとか、どこに線を走らせれば良いかとか、そういう、割と身体的なことの命令系統を司っています。
でもでも、いっそ感覚に任せてペンを走らせれば良いんでないかい?
とおっしゃるかたも要るとは思います
が、それじゃ駄目なの。
感覚に任せると、耳から入って来る音の印象が影響しすぎて、目的とちがう描き方になってしまう。
加えて、手癖で描き進めてしまう事にもなりかねない。これは最悪。ただ何となく道具持って身体動かしてるだけでしかない。作品作りでない!
そんなかんじで片方の脳みそを使用しています。
じゃあ、もう片方の脳みその話しをば。
もう片方は常に回転しています。入って来る音楽情報もこっちで受けてるし、そこから派生していく思考、たとえば、歌詞を読み取って自分のことを省みたり。そういう役割をになっています。
それと、今さっきも言ったように、こっちの脳みそは基本的には自分自身のことを見ている事が多いです。常に自己分析しています。宗教用語でいうと、瞑想っていうんですかね、それに近い使い方をしているようです。(ようです、といったのは、顕在意識をそっちの脳で使っているので、客観的に見づらいから)
それと余談ですが、ここでの思考は自己を見つめなおす作業なものですから、個人をフラットにする意味で、役に立ってます。また、単調に身体を動かしながらものを考えた方が、しっかり系統立てて思考を収めて行く事ができるっていうメリットもあります。
またまた話しが逸れましたが、そんな感じでこっちであたまがフル回転してるお陰で、単調にもう片方の脳みそと身体とで進んで行く制作からくる眠気(リラックス)に良いバランスでチャチャがはいるのです。
そのバランスが崩れたとき、つまり、物事を考えなくなったとき、基本的に眠気に襲われます。
そして、今描いてるものに趣味が混じって、嫌気がさすのです。そうしたらもうアウト!
また、逆を言うと、音楽が止まってたとしても、頭が回転してくれてる状態なら全く眠くもありません。しらふに戻った時に、「おお、面白いの描けとうやん」って、楽しくなります。
そんな具合で、描く脳みそをα脳、思考する脳みそをβ脳と置き換えると
・描く際、β脳はα脳の補佐役である。
・自己分析の際、α脳およびそこから生まれる作業は、β脳の補佐役である。
この二つの脳みその関係が良好な程、いい制作現場となるのDIS
ただ、制作してるとこを、勝手知らぬひとがいた場合、どうも自分を良く見せようとして、結果失敗するのDIS
11月はライブペイントがあるから、その辺を整理して挑まんと。あと、画材も。
柴田の制作スタイルについての話しです。
興味のある方は、読まれる方は、覚悟して下さい。長いですから。
しかし、これを読み終えたときには、いくらか僕の制作現場や絵に関する考え方などなどが理解頂けるかと思います。では。
作業中、なんで音楽を聴くのか、と訊かれたことがあります。
無音のほうが、制作に集中できそうだし、音楽のイメージが付いてしまって、自己表現とは違った方向に進んで行ってしまうんではないか、という。
うん、うん、確かに正論。いってる事わかります。
でもね、でもなんですよ。
僕の個人的な趣味と言うか、考え方というか、非ジョーにパーソナルな所の話しになるのですが、
えー、結局自分が想像し得る範疇のイメイジを、わざわざ目に見える形にしても、
何も楽しくないのですね。
所有欲は満たされるでしょうけども、あんまし魅力を感じない。
それなら目をつむって、空想をすれば片が付くんですよ。極端な話し。
それに妄想を現世に現してもがっかりするだけ。
妄想は、妄想であるから価値があると考えます。
そういうことよりも、もっと想像すら及び追いつかないものを描き現したい。
見た事もない様な、奇異珍妙なものをみたい。壮大過ぎて途方にくれそうなものを見たい。
なおかつ、そこには何もないような、空っぽの様な、意味のない様なものを見出したい。
脱線:ある一つのもの(ここでは自分の作品)には、一つだけのイメイジじゃ足りない。
いつも物事は二つの相反するものがセットになって、やっと独立出来るということです。
話がそれたけど、要は自己表現を越えた所の表現をしてみたいということ。
それに必要なのは、なににおいてもまず、「自己の忘却」
自分の趣味や、嗜好、妄想だけにとらわれていては、それ以上のものは出ない。
たまに、自己自体がとんでもない広さの人間もいるけども、
ほんとに平坦で、予定調和で、大した人生も送ってきてない僕にはそんなものの期待はできない。
というわけで、ピンときたのが「遺伝」であります。
まず、表現において大切なものを一つあげるなら、リアリティだと思う。
ところが、さっきも言ったように、人一人の経験なんてたかが知れてるのです。
当然人一人がもつリアリティも、大した事はないでしょう?
だとすると、どこから膨大な量のリアリティを持ち出すか。
そこで登場するのが、「遺伝」です。
遺伝情報は遡れば極めて広がりのある情報帯となります。
細胞の一つ一つに、46億年分の追憶があるわけです。
その事に気付いたら、こんなのに俺ひとり立ち向かっても勝てる訳ねぇ!
という結論に至った訳です。
勘違いして頂きたくないのは,別に、宇宙と繋がるとか、霊的ななんかが降りて来るとか、
そういうあやふやなものにすがったり、思い込んだりしている訳ではないということと
遺伝というのは事実的に確かに僕のなかに息づいているということです。
この、遺伝については僕の口から述べてもチープ&チープになるので、
「ドグラマグラ」という上下巻セットの小説を読んで頂くと、伝わるかと思います。
そんで、そういうことで「自己」に寄り過ぎないために音楽を流したり、ラヂオを流したり、何らかの情報を取り入れてる訳です。
あと、単純に、眠気をとるため。これ大切。
妄想したり、ましてやそれを描き出してる時なんか、熱中して頭が冴えるのは当然。
ところが僕の描き方ときたら、なににも寄らない浮浪のようなペンの走らせ方なものだから、ほんとのことを言うと、すごく眠くなる。単調な身体の動きは、動かないよりむしろ心地いいし、そう、電車に揺られる感じ?カタンコトンと。ああいう感じなものだから、すごく眠くなる。
それを打破してくれるのが音楽だったりする訳です。
ただ、もちろんその音楽のイメイジを絵に落とし込んでしまうとややこしい事になるので、そこは少し注意と訓練が必要。
じゃあどうやって絵を進めて行ってるのか。
簡単に言うと、二つの脳みそでもって絵を描いています。
それは右脳と左脳の分け方なのかどうかは、脳科学者じゃないから解らないけど、
具体的に説明すると、片方の脳みそは線を引く事に集中。身体をどう動かせば良いかとか、どこに線を走らせれば良いかとか、そういう、割と身体的なことの命令系統を司っています。
でもでも、いっそ感覚に任せてペンを走らせれば良いんでないかい?
とおっしゃるかたも要るとは思います
が、それじゃ駄目なの。
感覚に任せると、耳から入って来る音の印象が影響しすぎて、目的とちがう描き方になってしまう。
加えて、手癖で描き進めてしまう事にもなりかねない。これは最悪。ただ何となく道具持って身体動かしてるだけでしかない。作品作りでない!
そんなかんじで片方の脳みそを使用しています。
じゃあ、もう片方の脳みその話しをば。
もう片方は常に回転しています。入って来る音楽情報もこっちで受けてるし、そこから派生していく思考、たとえば、歌詞を読み取って自分のことを省みたり。そういう役割をになっています。
それと、今さっきも言ったように、こっちの脳みそは基本的には自分自身のことを見ている事が多いです。常に自己分析しています。宗教用語でいうと、瞑想っていうんですかね、それに近い使い方をしているようです。(ようです、といったのは、顕在意識をそっちの脳で使っているので、客観的に見づらいから)
それと余談ですが、ここでの思考は自己を見つめなおす作業なものですから、個人をフラットにする意味で、役に立ってます。また、単調に身体を動かしながらものを考えた方が、しっかり系統立てて思考を収めて行く事ができるっていうメリットもあります。
またまた話しが逸れましたが、そんな感じでこっちであたまがフル回転してるお陰で、単調にもう片方の脳みそと身体とで進んで行く制作からくる眠気(リラックス)に良いバランスでチャチャがはいるのです。
そのバランスが崩れたとき、つまり、物事を考えなくなったとき、基本的に眠気に襲われます。
そして、今描いてるものに趣味が混じって、嫌気がさすのです。そうしたらもうアウト!
また、逆を言うと、音楽が止まってたとしても、頭が回転してくれてる状態なら全く眠くもありません。しらふに戻った時に、「おお、面白いの描けとうやん」って、楽しくなります。
そんな具合で、描く脳みそをα脳、思考する脳みそをβ脳と置き換えると
・描く際、β脳はα脳の補佐役である。
・自己分析の際、α脳およびそこから生まれる作業は、β脳の補佐役である。
この二つの脳みその関係が良好な程、いい制作現場となるのDIS
ただ、制作してるとこを、勝手知らぬひとがいた場合、どうも自分を良く見せようとして、結果失敗するのDIS
11月はライブペイントがあるから、その辺を整理して挑まんと。あと、画材も。
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